味噌の歴史

味噌の原点

みそは中国もしくは、朝鮮半島を経てもたらされたといわれています。古代中国の醤を根源とし、日本で工夫を重ねて編み出した独自の製法によって造られるようになり、今日のみそが完成しました。これはみその由来をたどっていった江戸時代の学者の説に端を発しています。漢字の「醤」、「鼓」、和名では“ひしお”、“くき”と読みますが、「醤」という文字は中国の古代文書の「周礼(しゅうらい)」などに既にみられるところから、“これぞ、みその原点”とたどりついたのでしょう。

現在でも、中国には辣醤(ラージャン)=豆板醤(トウバンジャン)、甜麺醤(テンメンジャン)、暇醤(シヤージャン)、豆鼓(トウチ )などがあり、料理によく使われています。韓国料理にはコチュジャン(醤)は欠かせないものになっています。これに日本のみそ(味噌)、しょうゆ(醤油)を加えると“発酵調味料(食品)ロード”ができ上がるようです。さらに、 調味料ロードの先をたどると、東南アジアのニョクマム、ナンプラなどの魚醤があり、それぞれがしっかりとその土地土地に根づいて、民族の味覚と食生活のベースとなっているといえるでしょう。

みそと食〜家族(1人)に1斗、客1斗〜

鎌倉武士の食事は一汁一菜。幕府を確立したバイタリティは1日5合の玄米ご飯に、みそ汁と魚の干物という献立によるものだといわれています。一見粗食にみえますが、玄米でカロリーを、干物からカルシウムとたんぱく質をそれぞれ取り、みそで栄養を補給するという食べ方は理にかなった食事法といえましょう。

そして、これが以後の日本人における食の基本になり、明治、大正時代に至るまで長く受け継がれました。米は時代と経済事情、階級、農収穫によって精米されたり、麦やひえなどの雑穀になったり、干物が土地によって野菜の煮ものになったりすることはあっても、みそだけはどんな状況下でも変わらずに食べつづけられたのです。そのため、みその醸造だけはないがしろにはできませんでした。他人まかせにせずに、それぞれの家で、「家族(1人)に1斗、客1斗」を年間の仕込みの目安にして造っていたのです。つまり、年間に1人1斗のみそを食べていたようです。

みそが現在のみそ汁のような形になって、庶民の食事に組み込まれるようになるのは室町時代になってからです。 それまでは粒々を残したままで、調味料兼たんぱく質補給源の大豆を食べるのが「みそ汁」でした。みそをすることに気づいたのは鎌倉時代。当時、幕府の頭脳的な役目を果し、知識の源でもあった禅寺でした。粒のあるみそをすることで調味科としての用途が広がり、おそらく寺の精進料理は献立を増やしたことでしょう。そして、みそ料埋の発展基盤ができたのが室町時代。みそ汁だけでなく、今に伝わるみそ科理のほとんどが、このころから造られるようになっています。この時、みそは大きな飛躍をしたと考えられています。

味噌で健康

「医者に金を払うよりも、みそ屋に払え」 ― これは江戸時代のことわざです。『本朝食鑑』(元緑8年・1695)によると「みそはわが国ではむかしから上下四民とも朝夕に用いた」もので、「1日もなくてはならないもの」であり、「大豆の甘、温は気をおだやかにし、腹中をくつろげて血を生かし、百薬の毒を消す。麹(こうじ)の甘、温は胃の中に入って、食及びとどこおりをなくし、消化をよくし閉塞を防ぐ。元気をつけて、血のめぐりをよくする」効果があるとしています。そして、これがみそに対する認識の礎になりました。

そして庶民は経験に基づく伝承によって「手前みそ」を醸造し、調味料としてのみならず、保健のための栄養素として、みそをべ一スにした食生活を確立したのです。江戸庶民の文化やパワーも、「みそがあってこそ」のものだったといえるでしょう。

農家では、どんな飢饉の時にもみその仕込みだけは欠かしませんでした。たとえ穀類の収穫が減少しても、みそがあれば飢えをしのぎ、健康を守ることができると信じられており、事実、諸国を治める大名諸侯はみそづくりを奨励していました。

みその文化

「なっと切る音しばしまて鉢たたき」 ― と芭蕉の句にあるのが江戸っ子に好まれた納豆汁。納豆を細かくたたいて、豆腐と青菜を入れた、今考えるとなんとも栄養たっぷりな朝のみそ汁が家族の1日の活力源でした。当時江戸の人口がざっと50万人。みそは、江戸および近郷の下総や埼玉の生産量ではまかないきれずに、家康の出身地の三河岡崎の三州みそ、仙台みそなどが海路でどんどん江戸に送られ、みそ屋は盛んな商売をし、街中はあたかも野菜畑を歩いているようにみそ汁の材料が集まりました。

今も残っている落語「味噌蔵」や「味噌豆」をはじめ「東海道中膝栗毛」には各地のみそ料理が紹介されていますし、「看板(芝居の絵看板)を見るなと味噌を買いにやり」という具合に、江戸(古)川柳などにもみそにまつわる記載が多々出てきます。うなぎのかば焼きも最初はぶつ切りにしたものをみそだれで焼きつけたというほどで、みそのない生活は考えられなくなっていました。江戸の街では、女性の数に比べて男性が多かったと記録されています。そのせいもあって外食の習慣ができ、それにかかわる料亭をはじめとした飲食店が発展するとともに、みそを使った料理が最高に発達して、洗練され、それが徐々に庶民の生活にもなじんでいくようになったようです。 なんだかみそのいいにおいが漂ってくるような気がしませんか。